子供の頃、親が死んでしまったら悲しすぎてわたしは生きていけない・・・と思っていました。 その時がやってきて実際に感じる思いは全く別のものだった
両親の死をふり返ると悲しみばかりではなかった
あの頃(両親の死)の携帯や写真を見ながらこころの動きを振り返りました。
すると、色々と引き寄せが発生していることを再発見できるのです。
別れは誰でも悲しくさみしいものです
しかし、ワクワクするようなことも多発渋滞していました!
例えば・・
面会はさようならの4時間前
このブログを書く為にあの時使っていた携帯電話。 父の最後の日に見た病院からの着信記録・・・
そもそも一体何時から電話が入っていたのだろうと、1年経ったいま
着信履歴を改めて確認すると・・
あの日、わたしが父と別れたのは夜8時は過ぎていた
父と別れた後、4時間後にはもうこの世界に別れを告げて母のいる世界へ向かっていったということです
あの日、コロナ陽性者が出たために予定より父と会える日が一日繰り上がったのは偶然?
もしコロナによる面会禁止がなかったらあの日、あの時間にわたしは病院へ行っていない。
父が旅立つ前に会って話すことも出来なかったのです
本当に偶然?
最後の面会で父と話をする前も看護師さんからも医師からも
「もう意識があまりないようです」
と言われたのに、実際父に会ったときは意識があり、ささやき声でも
はっきり聞き取れる言葉を話していた。一方的ではなくちゃんと父と会話をしたのです。
この病院からの脱出の計画を・・・(※とにかく父はこの病院から出たがっていたのです)
面会途中に点滴を点検(?)しにやってきた看護師さんが父が話している姿を
見て驚いていたのも父の様子がこの時に限り明らかに違っていたからだった
わたしは絶対に偶然ではないと思うのです
これは
絶対にそう思う。 あの時は必死だったのでこんなメルヘンな事を考える余裕も無かったけれど、父と最後に話しが出来て「またね、ばいばい」と声を掛けることができて、本当に良かった。。
未だにコロナや未知のウィルス騒動に翻弄されている日本ですが、そして日本全体が生き辛い社会になっているように見えるのですが、実はそれとはまた別の、でも確実に目に見えない世界があって、現実に見えるこの社会ではない目に見えない別の世界の動線の上をわたし達は歩いている気がするのです。
どこまでも一緒のふたり
二人が亡くなった病院も同じ。(救急車で運ばれた二人は別の日に同じ病院へ運ばれ、主治医も同じ先生で死亡確認も同じ先生)
両親が亡くなると、遺体を病院から葬祭場へおくります。
母が置かれた葬祭場の安置部屋兼控室、11日後に全く同じ部屋に父も安置されていました。他にも
通夜の時間
お葬式の時間
お坊さん
火葬の時間
11日違いですべて同じでした(葬儀社の方へある程度の日程希望を伝えられますが、火葬場の空いた時間を考えて御葬式の日程を組みました)。 天気も晴天だった。 出身地が全く違うけれどお互いの先祖代々の宗教も同じだった。
どこまでも一緒で仲いいなぁ~
式場の方もお坊さんも口をそろえておっしゃいました
これも偶然?
この年の父の急激な体調の不調から、母の他界、父の他界は夏から冬の間の出来事です。
大激変と言われるくらいにあらゆる想定外の事が起こりました。
・・が、信じられないくらいに鮮やかと言ってもいいほどに、
流れがあったのです。 見えない流れというか、道というか・・・
家族の協力や友達の助けや周囲の助けが必要なタイミングに丁度いただき、上手い具合に乗り切ることが出来たのです。
偶然という言葉は違う。 文字通り神がかっているように奇跡のように
事が運んで行ったのです。
すべては偶然でしょうか?
何はともあれ、両親の「引きの強さ」は間違いありませんでした
引き寄せ上手になるには?
人のこころの感情は様々ある
こんな感じで
↓
超絶自己中な面もあれば、やけに心が広くなったりするときもあります。 みんなそうでしょ?
誰か(何か)とこころが感じる世界が同じ時、その時に引き寄せのスイッチ発動で現実を引き寄せる
縁が出来る人はきっとこころが感じる世界が同じ
でも、感情は人それぞれに違います
だから人生は共有出来るところと出来ないところがあります
両親はそれぞれ全く性格が違いました
この世の去り方も全く違っていました
母は大嫌いな病院のお世話にならず(最期だけ)、
父は生前どんな些細な不調も病院のお世話になっていたので、最後の最後まで・・・・
この世界からの去り方は違えど、去るタイミングの二人の息はバッチリでした
ふたりの共通の”お互いがお互いを想う”というこころの世界が別の動線を引きます
この世を去るタイミングを「こころが感じる世界」で合わせることが出来るのか証明はでないけれど、絶妙すぎるタイミングには偶然以上の何か別のものを感じます。
そう、性格の差なんてとても小さなこと
ふたりはお互いの性格の違いを知っていたし、お互いを変えようとしなかった
違いを認めるだけでいいのです
同じ波長(こころが感じる世界)の人といると引き寄せが出来る!
生きているとか死んでいるとか、人間とか動物とか、
石とか土とか植物とかも関係ないのかもしれません
波長が同じかどうか・・・
そんな気がしてきます。
そうなのだよ
急遽戻ってきた(?)つばめちゃん
毎年つばめが軒下にやってきては子育てをします
わたし、つばめ好きです
父が1度目の入院から退院をしようとリハビリを頑張った時期がありました
わたしの心中はというと、先が不安で心が押し潰されそうな時期だった10月のある日、
ぼんやり玄関先に座り込んで
外を眺めていたら、つばめが飛んできた
7月に子育てを終え、子供は巣立ちをしています
親つばめはしばらくここで寝泊りしていたけれど・・
1羽が久しぶりにやってきた
お父さんかお母さんか・・・・どちらかわかりません
もう日本を旅発ったと思っていたのに
ふさいでいた気持ちもバーーっと明るくなったのをハッキリ覚えています
言われてないけど、言われてる気がした
先の事なんて誰にもわからん
ゴチャゴチャ考えず
とにかく前むいて進もうか
かならず丸く収まるんだから
そうだ、つばめ達はこの後大きな群れを作り日本を離れ南下していく生死を掛けた長い旅が待っている。死ぬのが怖いから旅をやめる、なんてことはない。
彼らは未来のこと考えて不安に押し潰されることは100%ない
「今この瞬間」を懸命に生きているのだ。
あの日、一度きりだった、
あのつばめが戻ってきたのは・・・
偶然?? それとも 引き寄せ??
類は友を呼ぶ
そうだ、波長は人だけではなくて、動物や場所やモノも同じように持っているということです
病院嫌いには病院は寄ってこない(引き離す)
病院に信頼を寄せていると病院のお世話になる(引き寄せる)
お互いに相手の全てを認め合うと、同じような愛情の波長の引き寄せがやってくる(父と母の場合)
絶対に目には見えない世界があって、今自分の目の前に登場する人や建物や動物や場所はどこかに自分と同じこころを持ってるのかもしれません
別れも愛のひとつ
「あれこれ手を打ったのに回復せずに死んでしまった」
と、昔の自分なら思っていたかもしれない後悔と悲しみ。
でも、ここまで仲良く旅立てた二人の生涯に誰が口を挟めるの?
冷静になるとそう思うのです。
誰しもこの世との別れがあり、大切な人との分かれも経験するでしょう。
「別れも愛のひとつ」という言葉がありますが
「別れを経験して彼らの愛を知る」というのが私の中の
別れも愛のひとつ
でした(ありがとう、ゴダイゴ・・ありがとう999・・チガウ)
ありがとう、おとうちゃん
ありがとう、おかあちゃん