いつも元気な母がある日の金曜日に体調を崩しました。 測ると熱もあり、週が明けたら再度病院へ行こうねと話しもしていた。週明け月曜の早朝、更なる体調悪化の為に救急車にて救急搬送。 そこは父が1ヶ月入院をしている病院。 こんな事になっているとは勿論父は知らない・・・・
母、父の病院へ
(⑥の話のつづき)救急で運ばれた病院は、幸運にも父の入院先。 母を救急治療した担当医は父の担当医。
応急処置で母の様態を調べ、「多臓器不全」と診断されていました。 多臓器不全であっても話しかけると応えてくれました
母はすでに血液が体内を循環できない状態であり、その為にすべての臓器も機能を失いつつある状態ということだったのです。
母ちゃん、今病院。 お父ちゃんがいる病院やでな。
そうか、お父さんとこ来たんか?
…..これ(装着されたマスク)めっちゃ苦しいわ。。こんなん初めてやな
そやな。 でも頑張ろうか。
…………………………
………………………………….
………….. あのさ
なに???
ねこ、頼むわ
ねこ・・・
頼むわな
近所のおばちゃんに猫の事言ったらすぐにわかってくれると思うから
まかせて!
おおきんな(ありがとう)
猫は自分でごはん用意できんからな
それだけが心配でさ
猫はよそからやってきた野良猫ちゃん。 母がえさを家の倉庫であげていました。寒さ厳しい冬は湯たんぽを用意して、とても可愛がっていました。 その近所のおばちゃんはうちの野良猫ちゃんの事をよく知る人なのです。
母は自分が倒れていても、体が機能を停止しようとしていても、どうやら自分の体より猫が気になっていたのです。
母、心臓止まる
そんな話しをしながらも入院手続きがあるのでわたしは事務員さんに呼ばれ、母は父の寝ている階のICUへと運ばれるため移動が始まりました。
病院1Fの処置室からICUへ移動の為エレベーターまで一緒に行き
母ちゃん、すぐに行くからね!
後でまた会おうね!
こう声を掛けて見送った数分後。
母と別れてほんの一瞬でした。
母の心臓は止まってしまいました。
入院手続き書類を記入しているときに事務員が駆け寄り、「先生からすぐに来て欲しい」と。
その表情だけで理解が出来ました。
頭の中はそんな事がグルグル回っていたように思います。
母をいつも想っていた父、家で一人にさせておくことをとても心配していた父、体が思うように動かなくなって辛い思いをしていた父にこんなショッキングな話しが出来るのだろうか・・・
急いでICUへ行くと母のベッドの上で先生だか看護師さんだか分からないけれど心臓マッサージをしていました。 しかし手を離すと鼓動はありません。 父を呼ぶようにICUから父のいるナースステーションへ連絡をし、私も父を迎えにいきました。
色々考えながらも足は父の元へと走り出しました。
連絡を受けたナースステーションの看護師の方が車椅子を用意して父の所まで来てくれました。
良い女房だった、ありがとう
どのように説明したのか覚えていません。 ただ、面会でもない曜日に血相変えて娘が病室へ飛び込んできたら何かが起こったということはわかるのでしょうか。
車椅子に乗せてもらい、急いで母のところへ行きました。
そう声を掛けたのは今も覚えています。 そして一緒にICUの扉の中へ・・・
心臓マッサージ、そして電気ショックを少し離れた場所で見ていました。
しかし、心臓が再び動くことはありません。
担当医師が父に母の元へと誘導し(酷過ぎです~(;´༎ຶ༎ຶ`))、そして母の状態を確認し、死亡宣告をします。 (現実味のないテレビの医療ドラマを見ているような錯覚)
黙って見ていた父も母の元へ行き、寝ているような(あの苦しい顔はすっかり消え、文字通り安らかな眠り)顔の母の手をしっかりと握り、こう言いました。
身体の機能の中で一番最後まで働くのは「耳」ときいたことがあります。 もしそうだとすれば、たとえ心臓は止まったとしても、父の母への感謝の言葉を母は聞いていたにちがいない。 ちゃんと聞いてくれていたと思います。
あまりに突然の出来事でしたが
父と母が一緒にいるこの場面に立ち会えたことは本当に幸せだった
と、今ふり返っても思います。
娘の知らない両親の人生。 色々な体験を通して築いた二人だけの絆があったはず。 父の母への愛情はとても分かりやすいので、この喪失感はどのくらい大きかったのだろう。 母がいたからこそ、体力が落ち、体調が悪化しても尚、退院をしようと前向きに頑張っていた父。
父ちゃん、気ぃ落とさんといこいこ!
泣いてたら母ちゃんが心配するで
頑張るしかないで!
そんな感じの言葉を掛けていたように思います。 父に掛けているようで自分自身に掛けていた言葉。 そう、私にはこの後のやらねばならないことが山積みなのです。 最後までしっかりしないといけないのです。
この「母の死」がきっかけで、ある意味父の肩の荷が下りたのは確かでした。 自由に動かせない自分の体、家に残している母への不安、そのハザマで揺れるストレスはとても大きかったと思います。 この現実味のない出来事を頭の中で整理をするとともに、父は言う事の効かない体を徐々にこの世界から解放する方向へシフトチェンジをしたのでした。
そう感じたと思います。 なぜなら、母の旅立ちの約10日後に父は母の元へ静かにこの世を去ったのですから。
この時点では10日後にそんな事になるなんて想像すらしていなかった。 父に慰めと気合いの言葉を掛け、慌てて以前教えてもらった葬儀社へ連絡をし、病院から母を引取ってもらう手続き、そしてその後の御通夜・御葬式の手続きをしていくのでした。 沢山の方の協力のお陰で、思った以上にスムーズに事は進められました。
寒い時期だったけれど、風のない晴天の中で通夜・葬式・火葬までの一連の流れが無事に済み、父へTELをすると
話すことも難しくなってきていたはずなのに、父はそう言ってくれたのでした。(つづく)
昔から母から言われていた言葉を思い出し、心新たに誓ったのです。母との約束は今も守っています。