わずか10日余りの退院後の日常生活を味わい、再び父は再入院へ 。わずか10日間、されどとても貴重な10日間でした。父をお迎えしたのも束の間、再び病院へ見送る母。 お互いに交錯する想いはすれ違っているようで実は堅く結びついていくのです。
父の容態と主治医の見解
入院時、主治医は
「脱水症状と栄養不足」です
と診断。 よって、点滴による栄養補給と鼻からの酸素吸入。 1度目の入院時より更に体力が落ちているけれど、処置内容は1度目と大きく変わるものではない。 酸素飽和度は前回より落ちているが、しばらく酸素を入れると元に収まるだろうと。 退院後は以前摂取していたOS1もやめていたこともあり、圧倒的に水分も足らなかった。 食欲もかなり減っていたので体力も落ち、リハビリをする事もあまりなかった。 当たり前と言えば当たり前の結果を迎えてしまったのでした。
主治医と話す機会があり、その時に言った言葉は
「急激な体重減少や食欲不振、息苦しさの為に検査をしたけれど特定の異常は見られない。 色々な状況を考えてみると・・・・
老衰状態
ではないか・・・・と」
という内容でした。 その字の如く老いて衰える。 歳を取り、機能が衰えてくるということです。そしてその原因・・・
そうです。 そうだと思いました。 「老衰」を意識したのは父の最初の入院時。
「深刻な病気とかではなく、もしや単なる老衰ではないか?」と。
2022年の年の暮れに今までにないくらいに息苦しさが父を襲いました。 それまでも息苦しい症状はありました。 色々と検査をし、5年前には心臓の血管を広げるステント手術をしましたが結果は全く改善方向へは行きませんでした。 父の身体はその頃すでに衰えてきていたのです。 それが2022年暮れにガタンと老衰ギアが上がったのでは? と考えると納得できるのです。
母ちゃんよ、ディサービス、行く?
さぁ、再び一人で家を守ることになってしまう母。 食事はスーパーで出来合いを買うか、宅配を頼むか、わたしが作るか・・・ 全部やりました。 しかし今後、どうしてもわたしが家に行けない期間があった場合を想定すると心がざわざわし始め、とても心配になります。
わしは一人でも大丈夫や
と母は言いますが、娘としては心配です。 結局は毎日顔を見に行かないと”わたし”が落ち着かない。 『大丈夫』と母は言うが、わたしの心がどうしてもザワつき不安になるのです。 そう、母を一人残してしまう「わたしの心」が心配で仕方ない、というのがメインの理由です。 父の退院時にふたりの共通のケアマネージャーになっていただいた方とは既に顔合わせはしています。
頼む、わたしのためにディサービスへ行って!
いかん。 心配いらん。 頼むでそんな事言わんといて
わたしを助けると思ってお試し1回でもいいから行ってみてよ
食べることはなんとかなります。 問題は一日中一人でずっといる事への弊害を考えてしまうのです。 外に出歩くことがなく、家の中で話す相手もいなくて、これから冬に向かってどんどん寒くなると気持ちもなんだか暗くなる。 刺激のない生活は認知症にはよくないらしい。 わたし以外にも助けてくれる人の目があれば、母のためにもなるはずだ。 万が一、先にわたしが倒れてしまったら・・・色々と最悪の事態を避けるシュミレーションをし、母を説得しました。 母の深いため息のあと
わかった・・・ お前の為にいくわ
あくまでも『娘の為』に行く(笑)と決断してくれた母に本当に感謝しました。 母は近所の友達を呼んで喋っていればそれで楽しかったんだろうけど、「娘の為」という言葉に弱い母心。
その後本当にお試しディサービスを1日だけではあったけれど、朝から夕方までフルで過ごしました。 そこは小規模のところで外からみても一軒家のようなところです。 お昼ごはんもよばれ、お風呂にも入れていただき、ほとんどが女性利用者だったようです。 知り合いはいませんが、スタッフの方によれば『すっかり馴染んで利用者のおばあちゃん達と話しに花が咲いていた』とのこと。 ケアマネージャーさんからも週に数回の利用をお勧めされました(行ってくれたら本当にありがたい)が、母は
なんだって~??
聴こえません~
そんな感じでした(笑) 一度でも行ってくれたこと、今でも感謝しています。 その後も日程を改めて調整をしていきましょう、とケアマネさんと話しをしていまいた。 ケアマネージャーさんによるとディサービス利用者がその後老人ホームや介護施設、グループホーム等の滞在施設へ移行することになるのは必然だそうです。 その為にも今からそういう介護施設に慣れて行くというのは、本人にとっても良い(環境の変化で不安になるのを少しでも和らげる為にも)とアドバイスをいただいていました。 今後どうなるか分からないが、父が長い期間不在する事を考えると母のこのディサービスは大きな一歩だと考えていました。 何度もディサービス体験を頼む娘に対し、母も
週イチならしょうがないか・・と諦めて通う覚悟もしてくれていました。
ホントは行きたいないんやけど。。。
おまえがそこまで言うからな☆(想像の声)
父、肺炎手前で危険迫る
父の再入院して1週間後に母がディサービスを体験。 その翌週、父の面会。 母一人でディサービスを体験したことを報告。 あれほど嫌がっていたディサービスを一人で体験したことを知った父は驚き、安心したようだった。 父の状態は更に悪化し、ベッドのマットがやせ細った背骨や腰骨に当たりそれが痛いと言った。 ずっと不満であるナースコールを押してもなかなか来てもらえない状態にも愚痴をこぼしていた。 入院から約2週間後の週末、病院から連絡が入ります。
これは危篤? いや、そうとは言っていない。
”もしものことがありえる”と言われたけれど・・
ドラマでは入院中の患者の命が危ぶまれると「危篤です」という電話が入る。 電話の雰囲気はそんな感じではなさそうだった。 そして電話が掛かってきた時は家族で釣りに出かけていた真っ最中。 危篤でない事と信じ、主治医には「行けない」とだけ伝えた。
その頃心の中に決めていたこと。 それは、「目の前のことを出来る限り優先する」という事だった。
例えこの後に体調が急変したとしても、それは仕方のないこと。 目の前の釣りを楽しむことにしました。 後日主治医からの電話でも「抗生剤が効いているので安定している」とありました。 現にその翌週の面会には母と一緒に会いにいけたのです。 更に痩せて、声もほとんどささやき声になってきている。 誤嚥による肺炎だったので、それ以降固形物も液体も食べさせてもらえないようになっていた。 唇は乾き、のども渇き、父の不満はマックスではあったが不満を口に出す元気はあった。 母には先週の肺炎になりかけたことを伝えていないので
おとうさん、可哀相や。 いつここから出てこられるんろうか・・
と、ガッカリしていた。 一人で家にいる事がとても淋しかったしつまらなかったのでしょう。 病院での面会もずっとベッドの上で寝たきり状態です。 移動する事も出来なくなっていました。そして、母と父がお互いに目と目を合わせ、手を握り、会話を交わすことが出来たのはこの日が最後となりました。
ちょっとした贅沢
父との面会は午後と決まっていました。 面会日には近くの回転寿司屋へ行ってお昼からお寿司をいただくこともありました。「カニウィーク」に当たったこともあり、ふたりで『ラッキーやね』とニヤリした事もありました。 満腹になると母は
ワシが支払いします
と言って必ずおごってくれました。 今思い出しても、母の満面笑顔がはっきり分かります。 面会日の回転寿司屋はちょっとしたルーティンになりつつもあった。 そして日ごろから「100歳まで生きる」、と言っていた母は父との面会2日後に高熱を出しました。
初めての高熱
父の面会日は必ず一緒に行っていた母。 初めて母は面会へ行くことを諦めました。
おとうさんに風邪がうつるとアカンからな
今回ワシはやめとくわ
あくまでも「父に移すと悪いから」というのが理由です。 その時点では体温もまだ測っていなかったが身体がとてもダルくて気分も良くないから行くことをやめたのです。
父との面会をして、家へ帰ろうと思ったけれど、どうも母が気になる・・・・ 実家へ戻り、寝ている母に体温を測ってみると38度を超えていた。
すぐにかかりつけ医へ電話をして予約を取った。流行りのインフル検査もしてもらい、結果陰性で熱さましの処方していただきました。 意味のないコロナ対策の為、病院内にも入れてもらえず、車の中で鼻の穴に検査薬を突っ込まれ、触診も無く、ただ検査結果をみて終了。。 それでも先生や看護師さんには深々とお礼を言っていました。
母はわたしが子供の頃から高熱で寝込むどころか風邪ひとつ引かない人だった。 とにかく元気印だったのです。 肺がん手術をするときですら、熱など出なかった。 生まれて初めてぐったりする母を目にしました。 食欲もないのでおかゆだけ用意し、薬を飲んでもらい、「また明日も来るね」と言い残し家へ帰りました。 その時母は小さく
悪いな・・・ありがとな
母の熱症状は金曜から始まりました。週末の土日も熱は下がらず、月曜もこの調子ならばもう一度病院へ行こう約束した。
母、父の元へ
月曜の早朝に実家の町内に住むいとこから電話があり
すぐに来られるか?
いつもはこの時間に開いている雨戸が
まだ閉まっている。 呼びかけても
元気ないようだ。 カギがないので
入れないんだ。
朝がとても早い母は必ず雨戸を開けている。 慌てて家を出ました。
実家の玄関を開け、いつもいる居間も真っ暗だ。 寝室へ向かうと、寝室の布団から出たところで横たわる母がいました。 もうすぐ師走になるとても寒い晴れた朝だった。 身体を触ると冷たくなってきている。 声を掛けると、元気はないけれどまだぼんやり意識はあった。気付くといとこも来てくれていた。 すぐに救急車も呼んでくれた。 救急車はすぐに駆けつけてくれた。 隊員から本人への本人確認もボソボソと母自身で応えていた。。 でも記憶の中で一番元気のない母だった。
搬送先は父のいる病院に決まった。 そして送られた病院先での母の担当の先生は父の主治医だった。 後から聞くと、こんな事は偶然でもなかなかないと言われた。なぜなら救急車を要請すると、その日の担当病院へ送られることとなる。 救急指定病院は市内に数箇所あり、家から近い・遠い関係なく、その日の担当病院へ送られるのが通常だという。 まして担当の医師まで同じになるなんて・・
母は父にこの世の最期に最短方法で自ら会いに行ったのだと思いました。