【両親の死と子供のキモチ】⑤ 退院生活と2度目の入院  退院編

両親の死

父の”どんな状態であっても家に戻る”という硬い決意とは裏腹に思うように動かない身体。 あの時、どんな気持ちで家に戻ったのだろう。 ほんの少しの期間でも後ろ向きではなかったと思う。 いつも前だけを向いていた父の小さくなった背中がそこにありました。

退院前介護ベッドを買うべきか?

入院中には病院からケースワーカーという人を紹介されます。 父の入院中の様子や今後の方針(転院手続き等の相談や今後の相談)はケースワーカーと話しをします。 退院前に色々とお話しをさせてもらったが、その際に

「今後のことを考えると、介護ベッドが必要と思います。 色々と紹介もします」

と、言われました。

 
おおきん
おおきん
 

介護ベッドか・・・・

介護ベッド・・・介護ベッドは「特殊寝台」とも呼ばれる福祉用具のひとつで、利用者がベッドから起き上がったり立ち上がったりするときの動作を補助してくれるものです(参考→イリーゼさんHP

      イメージ図 ↓

      実際にはこんな感じ ↓

イメージ図↑

イラストだとほんわかしたイメージだが、写真だとやけに現実味を帯び全然ほんわかしません。 介護は現実です。

レンタルと購入

そして介護ベッド界でもグレードが存在します。 ピンからキリまであるのです。  正直突然介護ベッドの事を言われても、何をどうしたら良いか分からないのが普通だと思う。 そして、わたしも全く分からなかった。 将来のことを考えると購入をするべきなのか? いや、この先どうなるか分からないのにそもそも買うべきなのか?? 

介護ベッドと一言でいっても、起き上がりの補助から重度の介護認定者用まで用途によっても分けられます。 それが価格に反映されるので「はい、買います!」と言うわけにはいきません。 そうなんです、数万円から数十万円まで値段もさまざま、機能のさまざま。

おおきん
おおきん

じゃ、レンタルかな??

レンタルも存在します。 そしてレンタルであれば、場合によって保険適用でお安くレンタルできる可能性もあります。その基準は介護認定。 国が定める一定の基準にそって、認定員が判断します(常に面談~判定に1~2ヶ月待ち)。 

介護認定の種類 ↑(上から下に向かって重度になります 要支援1が一番軽く要介護5が一番重い状態)

介護認定には①要支援と②要介護の2種類があり、そのそれぞれにも更にレベルがあります。そして一般には

要介護判定の2から(要介護3・4・5)レンタルの保険適用となる。※市町村で変わる場合もある。 そして父がもらった判定は

要支援1

おおきん
おおきん

い・いちばんランク的に軽い・・。。 父、ほとんど動けてませんけど・・・ 

つまり、レンタルをするにしても国の補助は受けられません。  なので、介護経験ありのいとこに電話して聞いてみた。 介護ベッド・・・買ったほうがいいのか? それともレンタル?? すると

お姉ちゃん
お姉ちゃん
 

今は一人で歩けるの?  

おおきん
おおきん

杖ついてるけど・・歩ける

お姉ちゃん
お姉ちゃん

それならいままで通り、布団にしよう。

たとえ、畳の上の敷布団だとしても今まで通り。

布団へ入るのも、自分で起きるのもリハビリと

思えばいい。

・・・・高いよ、介護ベッド! まずは今まで通りよ

あっさり介護ベッドは却下でした。 お姉ちゃんいわく、「先走らない」・・でした。 

そしてこの判断も結果的には良かったのです。

いつもの場所

約1ヶ月の入院生活で、全ての栄養を抜き取られたように痩せてしまった父。 それでもとても嬉しそうだった。 日中はまだ夏の暑さが残っていた秋でした。

退院前に家へ帰ると決意し、リハビリで歩行練習をし、医師や看護師達も驚くくらいに復活を見せた父。 しかし、退院直前におなかの調子を崩す。 嬉しさと恐怖の間にいたのかもしれません。

しかし家に戻ればリビングのいつも座るソファの定位置へ慎重に、でも心なしか足取りもちょっとだけ軽い。 病院ではほとんどベッド上ですごした入院生活だったため、退院後の家での生活もソファで寝転んでいました。 いつもの生活を再び味わい、とても喜んでいたようにみえた。 魚好きの父は入院前は数口でも毎日刺身を食べていた。 退院しても食欲はあまりない父でしたが刺身やお酒は少しの量でも幸せそうに口に運んでいました。

睡眠導入剤

入院中に眠れずに処方されていた睡眠導入剤。 退院後これもすぐにやめた。 家に帰れば大好きな焼酎がある。 お湯割り焼酎を1杯、これを日課にしていた父はこれを飲むことで睡眠導入剤とはおさらばしました。

整体とOS1

整体

1度目の入院前の1ヶ月は整体を受け、それまでやっていた点滴生活もしなくて済んだという実績もあるので再度整体を受けることにしました。 父は自律神経失調の症状がそのまま当てはまった状態だったので身体の歪みを少しでも正常な場所に戻し、血流を循環させることが最善と思いました。 実際、退院後にすぐに整体を受けると弱弱しい声に張りが出る。 即効で効果を目撃できるのです。 でも…本人にはあまり実感が湧いてこなかった。 それから、「即効」の後は必ず「揺り戻し」が訪れます。 効いても身体そのものが元通りに戻ろうとする作用が・・・。 その反動がツライのです。 だから即効で効果があるものには「元通り」になるまで気長に付き合う気持ちも大切だと知りました。

OS1(経口補助液)

こちらも前回の入院前に愛飲していました。 年を取り、身体が自由にすぐに動かせられなくなってくるとトイレも面倒です(夜は特に)。 すると、水分を取らないようになります。 そして脱水症状になりやすくなります。。。悪循環。  退院した父にとっては転倒が命取りにもなると自覚をしていたのでトイレへ何度も行くリスクも考えたのかもしれません。 単に味がイヤになったのかもしれません。 あれほど「オーエス~」と言っていたけれど、退院後は一切飲まなくなりました。

日常生活再び!

とはいえ身体が思うように動かなくなってきても、やはり自分の家で自分の家族と生活できる喜びは格別。 普段わたし達は ”当たり前の日常” と思っている何気ない毎日を ”すばらしい日常” と思えるのは皮肉にも身体にまたは心に何か不自由があった時かもしれません。  呼吸する事が出来るというのが、実は簡単な作業ではなかった。 とか、トイレに行こうと立ち上がることが実は複雑な作業だったと知った。 とか、喋ることすら実は体力が必要な事だったと知った。 とか、座ることが全身を使っている事だったと知った。 などなど、かつてなんなく出来ていた作業ひとつひとつが出来なくなっていく自分を見つめる立場になった時、わたしは一体どんな気持ちになるのだろう。 父の場合、父の横には母がいつもいました。 父や母はそれぞれの立場からどう感じていたのだろう。 また退院した後の両親はどんな時間を過ごしたのだろう。。 ひとつひとつの作業はゆっくりと時間を掛けて、文字通りゆっくりゆっくりとふたりだけの時間を過ごしたのでしょう。 そしてこの退院生活約10日という期間が父と母が一緒に寝起きした最後の期間となりました。

お風呂

風呂好きの父は退院後、いの一番にお風呂に入りました。 入院生活1ヶ月でガリガリに痩せてしまっていた。 たとえ病院にシャワー室があったとしても、身体が自由でない患者は眺めていることしかできません。 しかし家に帰れば自分のペース。 風呂場で服を脱ぎ、自分の身体をみて驚いていました。

えらいこと痩せてしもうたなぁ・・・ はぁぁぁぁ~ お風呂サイコ~♪

何はともあれ、お昼から気分良くゆっくりとお風呂をエンジョイしました。 居ていいのかどうなのかわからなかったけれど、子供のときに常に見ていた父の裸を久しぶりに見てました。。 しっかりと見守りました。 当時、大きかった父の背中はやせ細ってしまいました。 でも風呂に浸かって自然と笑顔になる父の顔は、昔のときと同じ優しい父ちゃんでした。

日光浴

入院生活1ヶ月の間、日光を浴びる機会は一度もなかった。 自律神経失調の症状を和らげる為にも一日数十分でもいいのでお陽様に当たるようにしていました。 

近所の人から後日、

「お父さん退院してからさ、毎日お父さんとお母さんが夕方に南の縁台で肩を並べて座っていたよ。 お母さんが咳き込んでいるとお父さんが背中をさすっててな、本当に仲良しやったよなぁ~」

と教えてもらいました。 沢山の人から色々教えていただいたアドバイスを聞いて、少しでも良くなろうとしていたんだね。 母も父の傍から離れず見守ってくれていたんだね。

再会

父が退院してきたので、のりぞーとも一度だけですが会うことが出来ました。 すっかり痩せた父をみたのりぞーは

のりぞー
のりぞー

おじぃ~!! ガリッガリだねぇ(笑)

そういいながらハグをしていました。 そう言うのりぞーを見てニコニコと笑って『そうやろ~』と言い返す父。 その後のりぞーは父のガリガリの腕をしばらくの間さすり、そして長い時間抱き合っていました。

息苦しさ再び・・・・

退院したたけで気持ちはとても楽になります。 寒がりの父にとって病院の夏~秋はエアコンが合わずとにかく肌寒い。 布団をもう一枚もらうにしても、トイレに行くにしてもナースコールを押し、看護師がやってくるのを待たないといけません。 とにかくすぐに解決しない事だらけ。 我慢、我慢、我慢です。 退院すると、待ち我慢からの開放が待っています。 と、同時に万が一の体調不調にはすぐに対応ができません。 医師や看護師はいないのだから。

「もし体調が悪化したら・・・」

今考えるとこの不安が常に父を襲っていたのかもしれません。 体調が悪化して、再び母を一人残していくことは、父にとって辛く、悲しいことだったのでしょう。 しかし、現実にはふたたび息苦しさに襲われます。 病院の検査でも異常なし(年相応に老化はしているけれど)なのに、つい1ヶ月前までは病院にいかなくてもなんとか生活も出来ていたのに。 入院して体力がなくなり、杖なくして歩くことすら出来なくなっていることへの恐怖も怒りもあったのかもしれない。

夜は寒さを感じるようになってきた頃、退院をして約10日後の夕方、父から電話がありました。

「すまん。 苦しくてどうしようもないので救急車呼んでもらう。」

そして、以前入院していた病院へ再び運ばれることに・・・・

「大丈夫」

父からの連絡の後、父は近所の人に助けられ無事に救急車で運ばれていきました。 父は病院へ行ったのでとりあえず大丈夫として、母は大丈夫なのか? 慌てて母の元へ行かなければ。 小さな母は

「お父さん死んでしまうんやろうか・・・」とつぶやきました。

「そう簡単に死なんさ。 大丈夫大丈夫」とわたし。 そして続けて母は

みっちー
みっちー

ホント? 大丈夫? 

考えようによっては家より病院のが安心やな。

おとうさん苦しくても、わしではどうしたらええのか分からんし。

なんであんなに弱いんや・・死なんで欲しいけどなぁ・・・大丈夫やろうか

こう予測不能なことばかり起こると、出てくる言葉は

大丈夫

これだけでした。 誰でもいつかはこの世からいなくなるんだから。 未来は分からないのだから。 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫・・・・ 呪文のようにこの頃、心の中で言い続けていた。 母は歳をとってとても心配性になった。 なので、母と目が合うたびに

おおきん
おおきん

大丈夫

100万回くらい(気持ち的に)言ったような記憶が残ってる。 そして父の再入院後約25日で母が先に旅立つのでした。 つづく

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